B.G.R~Bottom Gear Resistance~

鷹を見上げた家鴨が想う、毒々しい雑記帖。

心機一転、とはいかない

 日本人が様々な文化活動の中で、一番心情豊かに表現するであろう桜が見頃を迎え、旧から新へと移行する晴れ晴れしい気持ちになってよさそうなこの折、唯一精神的な朗報はあの悪夢のような職場からの異動だった。

 その苦痛な職場を出れるわけだから、もっと喜ばしいはずなんだが、さすがは伏魔殿、引継ぎ資料にイチャモンを付けられ、引継ぎが完了していない。ちょうど足枷がはまっている状態だ。

 物事の見方はそれぞれあって、誠意をもって作ったものに文句を言われると、作った側からするとイチャモン、難癖、因縁、となるが、納められるほうの眼鏡に適わなかった場合、不十分、不誠実、非協力、となる。本来なら十分に協議を重ね、お互いの共通認識、妥協点を探りながら事を納めるほうがいいに決まっている。が、もはやそういう事ができるほどの信頼関係すらないと思ったほうがいいだろう。

 公共事業でご飯を食べていくにあたって、そのOBや議員の影響力から解放されるのにあと何百年かかるだろう。純粋に自分たちの技術力、技能力を売りにできる時代は来るのだろうか。そういうことを強く思う平成最後の年だった。長く公共事業に携わる仕事をしてきたが、さすがに疲れた。ただ、委託の1年が始まったばかりなので、来週辞めますというわけにもいかず、この1年は辛抱だと考えている。

 月に一度会社から回ってくる業界紙や機関誌には、いかに高い技術力で公共工事の問題点を解決し、よりよいインフラ整備、機能の回復に寄与したかを技術者のインタビューなどを添えて神々しく書いてある。そういうのを見ていると余計に引く。贔屓目にみて施工に関しては現場対応力の良否はあるかもしれないが、設計業務に至っては未だにお代官と越後屋を彷彿とさせる。就いた当時は心ときめく場面もあったが、今となっては別に自分がその道を選ばなくても、別の誰かがやるだろうとしか思わなくなった。仕事における技術革新は凄まじく、日進月歩で変わりゆく知識や理論、技術はあっても、携わる人々の利害法則、パワーバランスは200年ほど前とそう変わりはなく、誰のために何をやっているのかを考えたとき、自分の立ち位置に自信や自己満足が持てなくなった。

 悪しき慣例に異を唱えたところで、長いものには巻かれるのが「大人の対応」だという一種のスピリチュアルタトゥーを施した業界は、芸能や文芸みたく斬新で殻を破る道もあるということを許すはずがなく、ただただ増え続ける仕事量の海で溺死するだけ。

仕組みの歪み

選挙に上がった奴が偉いのはなぜだろう。

選挙に上がった奴らだけで決めたこと=民意って何だろう。

広く意見を聞くといいながら、一番確認しやすいネット上のコメントを拾わないのはなぜだろう。

机の下で足を蹴り合うようなくだらない鍔迫り合いがめんどくさくなっている国民を見て見ぬふりをする奴らになぜ税金を使うんだろう。

公聴会を開いている、広報も出している、足を運ばないほうが悪い、地域の代表から話を聞いている・・・ それで仕事してます!って言えるのはなぜだろう。

 

 春になると、地元の駐在さんが一軒一軒台帳を持って世帯調査や近況を聞いてくる。意見を広く聞くというのはそういうことの積み重ね。物事の取り決めをするのが仕事のはずの奴が、そういうこともせずに自分の政党の心配ばかりする。

 人生経験の豊富さを買われて年長者が執行機関を動かす概念はもはや時代に合わないのは明白。老害どもが利己的である以上、その次の世代の幸せが約束されるはずがない。

 

心機一転とは程遠く

 例年になく長く取れた年末年始のお休み。4日を会社が休日にしたため、どうかするとG.W.よりも長かったかもしれない。とは言え、ここ2,3年長期休暇があってもリフレッシュの実感が湧かない。

 久々の早起きで気分は最悪。壮絶に気分が乗らない中、勤務先へ車を走らせる。感情の起伏が穏やかなほうではない。でも、機嫌の善し悪しで仕事にブレがあるのは軽蔑の対象だと思っている。思い通りに事が運ばない時、野球選手でいうならベンチでそれこそベンチを蹴り上げる。グローブを床に叩きつける。サッカー選手もカメラにこそ映らないが、ロッカールームで物に当たる。テニスプレイヤーがラケットを叩き折る。ゴルフプレイヤーがクラブをへし折る。ああいうのを見ると無性に腹が立つ。

 よくよく考えたら自分の仕事の成果に納得がいかない感情を、それこそそのツールがないと仕事ができないはずなのにツールに当たる。俺から言わせれば自分の腕が、自分の足が性能を発揮できないんだから、腕や足をへし折ればいいのにと思う。

 ツールは、自分の仕事を手助けするツール以上でもそれ以下でもない。プロ志向になればなるほど、仕事で使うツールにはお金や時間をかけてより良いものを使おうとする。それは偏に、自分の仕事の成果により良いものを求めるからに他ならない。その飯の食い扶持であるツールを感情に任せて破壊する神経がわからない。

 実は通っている職場にもそういう奴がいる。忙しくなってくると、文字通りPCのキーボードを叩き始め、書類やファイルをドッタンバッタン・・・。かなりイライラする。そのことはその場にいる上司も気づいているはずだが、注意もしない。確かに個人の能力は高く、そこのセクションで行う各案件の要所に必ず絡み、影響力も強い。ただ、人望が厚いとはとても言えない。自他共に認めるせっかちさんであるがため、業務指示も必要以上に上から目線で、ハラスメント視されても仕方ないレベルもちらほら。そのせいで取引先からの評価は酷評が大多数を占める。

 その組織、実は名ばかりといっても過言ではない人事評価制度を採用している。職場環境改善や生産性、サービスの向上を目的としたものだろうが、ドッタンバッタンをほぼ連日目にするところを見ると、もはや機能しているとは言い難い。ただ単純に、組織が対外的にアピールしているだけのものだろう。行動規範まで設けているらしいが、それもスローガンだけはご立派で実態は取引先へのハラスメントは茶飯事になっている。

 ただ、一番問題なのは、その組織というのは・・・ お役所です☆

 こういった中の様子を一般市民や名立たる企業が見たなら、今時お前ら、、バカなの?って思うはず。

隣の芝と自分の芝

 お隣さんの芝の色がそんなに気になるわけじゃない。どちらかというとお隣さんはお隣さん、自分家は自分家の考え方。ただ、現状が自分が思い描くものと程遠かったり、日常的に閉塞感が付き纏ったりすると、何かしらの刺激を入れたくなる。

 

 “刺激を求めるということは、それだけ今が平和そのものであること”という理論がわからないわけじゃない。家庭があって、仕事があって、仕事上の様々な問題が散在するのはどの業界も職種も同じ。国内外を思えば今夜食べるものすらなかったり、いつミサイルや銃弾が飛んでくるかもわからず、清潔な水の確保も困難で我が子が5歳まで生きられるかどうかもわからない地域もある。そんな思いをすれば、日本に生まれ育ち、人として文明的な生活ができていることがどんなに幸せなことか。そう言われてしまえば元も子もないんだけど。

 具体的に何らかの危機に瀕していたり、生活が困窮しているわけじゃない。それでもある一定のストレスから逃れられないのはなぜだろう。時折現実逃避したくなるこの閉塞感は何だろうと思う。

 「現代病」の一言で片づけてしまうには、あまりにも大きく、広大で、常駐的にあるこのストレスという病原体を、どうにかして体外に出したい。という動機で始めたブログ。誰の目に留まるかもしれないし、何年経っても開設当時のままかもしれない。目に留まったところでどうということじゃないが、自分の感覚と世間の感覚や間隔がズレていないかどうかは、知っても損じゃないような気がする。

 

 ただの「日記」でしかないのか、「エッセイ」になってしまうのか。そこはあまり意識してない、というか自分でも違いが判らないので、ただただ単純に毒を吐くだけの構成になります。